皆白行山流三ヶ尻鹿踊(岩手県・金ヶ崎町)
◆鹿踊りの由来と伝承
今から345年前の慶安二年(1649)七月に、駿河国府中の人・飛鳥川常利が富士山麓で
鹿の群れ遊ぶ様をみて、天下泰平の為、諸病悪魔を払う祈りと解し、舞踊化しました。
「皆白行山流」の鹿踊りの初代は、行山踊中興の祖といわれる伊藤伴内持遠の弟子・本
吉郡入谷村(現宮城県本吉郡南三陸町志津川入谷)四郎兵衛です。それから六代目師匠
万之助から文政九年(1826)田中屋敷卯兵衛(三ヶ尻鹿踊り初代)に伝授され、日吉神
社に奉納し、三ヶ尻鹿踊りが始まり、168年の伝統を誇りとして継承しています。
黒沼鹿踊(現宮城県登米市中田)から胆沢郡八幡村万之助へと伝わったことから、宮城
県とも深い繋がりがあります。
◆「礼舞と役踊り」
鹿踊りは昔から礼に始まり礼に終わるのが建前とされ、礼舞が主となっています。先庭、
先きに庭賛め、入り込み、屋柄讃めをして踊りに入り、中立の綴(シコロ)の舞、続い
て群舞となり廻り切り、引き波で終わります。後庭、入り込み、群舞での舞、ここまで
は先庭とは別型の踊りで廻り切り、鹿の子、引き波は先庭の時と全く同じ型で引き波で
舞納めします。舞は先庭と後庭の最後に、ツケといって特別の舞型があり、例をあげる
と、我が里にザンザ、ザザザザ雨が降る、エンジヤやもどせ、加賀の都だ、という歌切
りで舞います。
役踊りには君川の狂い、女鹿かくし、案山子踊り、引き鹿島などがあります。
中立と女鹿の袴に特徴ある。中立の足の裏を見せるように足を捻る動作は、三ヶ尻鹿踊
の特有である。
演目は礼舞(前庭・後庭)と役踊り(三人狂い・一人狂い・牝鹿かくし・案山子踊・鉄砲踊・鹿島)